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想いを込めたお墓づくりコンテスト

第22回 想いを込めたお墓づくりコンテスト

【ご注意】
こちらに掲載されているお墓は、ご応募された方が想いを込めて作っておられます。安易に模倣等されないようご配慮をお願い致します。



レーシングライダーだった次男の墓はチェッカーフラッグ型、筑波サーキットのダンロップアーチもあるお墓

埼玉県 髙橋様

お墓建立の際のエピソード

レーシングライダーだった三人兄弟の次男は、三つ年上の兄をまねて自転車も乗れないのに、「バイクに乗りたい、乗りたい」と5歳からポケットバイクを始めました。すぐにレースにも出場するようになり、小学生の時には全国大会で優勝。小学生の高学年の時にはミニバイクレース、中学生ではロードレース、高校生では全日本ロードレース選手権に出場するまでとなり、初出場、初優勝という成績も収め、兄と共に世界選手権のMotoGp、日本GPに出場するまでになりました。その頃には三男も柔整師となり兄達を支えていました。また、その一方で次男はバイクの講師もしていて可愛い生徒も沢山いました。 そんなレース三昧の人生の最中、東北震災が起こり、息子達は、復興支援の為にと昼夜間わず活動していました。そんな中、ライダーが集まりチャリテイイベントを開催し、沢山の方々の協力を得て義援金もたくさん集まり、息子は皆様に感謝の挨拶もして、イベントを無事終えた事、開催出来た事にホッとしていました。私達は先に帰ったのですが、後から帰るはずの息子は、その夜、交通事故で23歳の生涯を終えてしまいました。 何が何だか分らないうちに、日々が過ぎ、お墓を建てる事になったのですが、長男と三男が、レースが大好きだった次男の墓石にと人生のゴールの意味を込めてチェッカーフラッグ、お線香の所には、よく通っていた筑波サーキットのダンロップアーチを取り入れてデザインを考えました。 図面上ではデザインが決まりましたが、実際出来上がるのかと心配でしたが、石材店の息子さんもレーシングライダーだったのもあり、伝えたい細かい所までも完璧に仕上げて頂き、出来上がりを見た時には感動で涙が止まりませんでした。 いつも明るく笑顔で人気モノの息子も天国でレースを楽しんでいる事でしょう。きっと…。本当にすばらしいお墓を造って頂きありがとうございました。改めて感謝致しております。



ダイビングファンのお墓はグラスエッチング加工の珊瑚付き。いい気持ちになれるお墓。

東京都 田中様

お墓建立の際のエピソード

最初見せて頂いた設計の完成パースではシックな白と黒の石材構成で少々暗いイメージでした。『お参りに来て頂いた方の心が暗くならずに、良い気持ちになれることが大事』と考え再度プランをご呈示頂きました。 自分の世界観と生きてきた証を少しだけ形にして残してみたいと思い素材として『サンゴ(海シダ)とスクーバダイビング』のお話をしたところ、設計の方からエッチンググラスとバリアフリーの墓所プランを見せて頂きました。 入り口脇に設えられたベンチで静かに瞑想出来る空間です。門扉は銅合金で色調も落ち着いており極めて重厚感があります。なるべく維持管理に手のかからぬようにと注文してみましたら、設計されていた後部屏風前のコニファーの植栽を取りやめ緑色の石で横格子状の屏風に変更していただきました。その代わりベンチ対面の花壇にはビンカミノールの植栽を残しました。墓域地下には排水トレンチを敷設し、地上では水勾配を熟慮した貼り石です。 漠然とした構想が、大変満足な結果となりました。漠然とした考えを形にしていただき誠に有難うございました。今でもダイビングのため度々訪れる南西諸島の海中で出会うサンゴ(海シダ)に関しては、こんなものを出してもどうにもならないなと思いながらも捨てがたい思いがあり、ためらいながらの提案でした。 今回積層ガラスのエッチング彫刻で表現された海シダは黒潮の流れの激しい岩盤に生息しています。ちょうどうちわをあおいでいるような動きになり、その美しい姿は自身のスクーバダイビングの記憶に刻まれております。 想像をはるかに超えた素晴らしいガラス作品となり、製作していただいた方々の並々 ならぬ労力と熱意と才能を感じました。将来お参りに来てくれた人が、私が体験し癒やされた『それぞれの瞬間』に思いを馳せて頂き、良かったと感じてもらえればと思っています。お願いした明るい色調の石碑には大好きな海の波をイメージした彫刻にしました。 墓所作りについて知識0からの出発でしたが、十分な打ち合わせと進捗の報告。完成した石工事は素晴らしい仕上がりでした。有難うございます。



樺太と日本をイメージした2本の墓石に、自由に行き交う白いカモメを刻みました。

東京都 NPO法人日本サハリン協会様

お墓建立の際のエピソード

<魂の集うふるさと>今年5月に札幌市郊外の霊園にできたサハリン残留邦人のためのお墓は、こんな表現がぴったりの特別な場所になりました。樺太と日本をイメージした向かい合う2本の円筒形の墓石、その間には2つの国を隔て、そしてつなぐ海と空を表したブルーのガラスがはめ込まれています。北海道とサハリンの間はわずか43キロ。戦後、残留を余儀なくされた方々がその海を越えるのに40年以上かかりました。 祖国に戻りたいと願いながら亡くなった母は、空を飛ぶ鳥を見ては「自由にどこへでも行けるあなたたちが羨ましい」と泣きながら呼びかけていた。永住帰国した女性からそんな話を聞き、多くの残留邦人が抱いたその想いを、墓石に彫った2羽のカモメに託しました。魂はどこへでも自由に行き交うことができます。はるかロシアの地に葬られた方々の魂は、お墓ができた今、いつでもここに集まることができるのです。 落成式の日はまぶしいほどの青空が広がりました。「お墓がなくては死ねない」といっていたのは、一緒に永住帰国したAさん(92)とBさん(84)。この日2人は「お墓ができたから、今度は長生きできるね」と笑顔で話していました。7歳の時に祖母に預けられ、樺太に渡った両親とは生き別れとなってしまったCさん(83)は、両親の写真をお墓に納めたあと「最後は私のところに帰ってきてくれた」と涙を流しました。一緒に帰国するつもりだった夫と娘を相次いで亡くし、サハリンに葬ったDさん(80)は、やっと家族揃っての永住が叶ったと安堵の表情でした。亡き両親の、夫の、子どもたちの名前を墓碑銘に刻み、写真を墓に納めた方々。お墓への思いは私たちには想像もできないほど深いものでした。札幌に永住したEさん(72)は東京に永住したFさん(69)に「お墓には一緒に入ろうね~」と電話していました。<魂が集う>このお墓は、亡くなった方だけでなく生きている人たちの心をもつないでいるのです。 参考:NPO法人日本サハリン協会(http://sakhalin-kyoukai.com/about/index.html) 1985年に誕生したソ連・ゴルバチョフ政権のペレストロイカ政策によって、それまで墓参団だけに限られていたサハリンへの訪問が、一般の観光客にも広がり、樺太出身者による訪問が相次いだ。こうした中、1988年に「平和の船」でサハリンを訪問した樺太出身者たちに対し、サハリン残留邦人から、日本への里帰りの実現に向けて支援の要請があった。これに応えるため、有志により1989年12月に里帰り・一時帰国の実現に向けて「樺太(サハリン)同胞一時帰国促進の会」が設立された。協会役員、会員ともに高齢化が進んだことから、「特定非営利活動法人 日本サハリン協会」と改称、役員を一新して、事業を継続している。



海が仕事場だった亡父、オーシャンブルーのガラスを埋込んだ潮の香りが漂うお墓

北海道 本間様

お墓建立の際のエピソード

浪漫を追い続けた父へ. 札幌の街並みが一望できる霊園に父が眠るお墓を母や弟と協力して建てました。札幌には、実家と自宅があり「家族みんなの姿が見えるから寂しくないね、お父さん」。 父が亡くなり、遺骨を納める墓地を探しました。当初考えていた納骨堂は毎年数万円の管理料がかかり前納もできない、そして何よりも土に返せないので諦めました。眺望が良く、自分たちがデザインしたお墓を建てられる今の場所を選びました。 父は、海の町、後志管内古平町で生まれ、一代で育て上げた会社は今、高度なタラコの解凍技術で名をはせております。海に携わった生涯をイメージして黒御影石にオーシャンブルーのガラスを埋め込みました。床の黒御影石がガラスのように反射して、まるで海に抱かれるお墓となりました。とりわけ拘ったのは、お墓に刻む「本間家」の文字です。以前住んでいた自宅には、父が筆字で書いた文字を銅板に流し込んだ表札があります。 それが40 年の月日と共に家族の思い出の表札となり、青銅色に風化した趣ある色彩が、わずかながらに深緑色を帯びた黒御影石に合うことがわかり、お墓にはめ込みました。また、お墓に刻んだハイビスカスの絵は、花には関心がなかった父が「散っては咲く。見ていて楽しい。」と病床で好きになった家族の思い出の花です。父は、シルクハットをかぶり、日によってマフラーを使い分けるおしゃれな人だったので、天国でお墓を見て気に入っているはず。雪解けに父と再会できる日を楽しみにしています。



生涯船乗りだった父、お墓の形は「大型船」

静岡県 江口様

お墓建立の際のエピソード

大正12年生まれの父は招集で陸軍福岡連隊に入隊し、砲兵として中国からビルマ戦線で交戦しました。 運よく生き残り、帰還後出兵前に勤めていた山口県の造船所に戻る前に、父の伯父さんの口利きで南氷洋捕鯨船に乗船、その時から船乗りとしての人生が始まり、それ以降近年までの31年もの長きにわたって私たち家族を養ってきました。 その間粁余曲折はありましたが、父の人生は海と船だったような気がします。私たち残っている家族は父の乗る船をかたどったお墓を見守りながら、これからも父と共に生き続けます。



ユニークな自転車屋だった父のお墓は、家族4人が1台の自転車でサイクリング

岡山県 河原様

お墓建立の際のエピソード

父の経営していた自転車屋は、組み立てられた完成品を販売するのではなく、お客様自身に組み立てをしてもらうというユニークな売り方をしていました。何故なら、お客様自身で組み立てをすれば、いざ修理が必要となったときに、お客様で修理の応急処置もできます。そして父のお店は競輪選手や多くの自転車ファンに愛されていました。 そんなユニークな自転車屋を一代で築いた父に敬意をはらい、私が描いた自転車1台に家族4人が乗るイラストをプレートにしてお墓に貼りつけました。



2つの家族が一緒になった象徴としての2家名入りお墓

山梨県 平田様

お墓建立の際のエピソード

末永い「和」の想いをニつの石の重なりにこめて。 テレビ局のプロデューサーとして働いていた頃、番組制作の仕事で偶然、自らの家系について知ることとなりました。私の先祖は桃山時代を起源とする刀剣金具師で、徳川幕府のお抱え工として、また維新後は世界的に評価の高い七宝技術を取り入れた勲章を作るという、格の高い職人家系だったのです。西洋好きでハイカラだった英語教師の両親からは、先祖の功績について教わることがありませんでしたが、文献で自らのルーツを知り、非常に誇らしく思いました。と同時に、その末商として先祖の慰霊をきちんとしておかなくては、という思いが強くなっていきました。 妻に先立たれた私でしたが、縁あって小淵沢で再婚。暖かい家族に迎えられ、第二の人生をスター卜することができました。心やさしい新しい家族に私の心は決まりました。東京にあった墓を八ヶ岳、南アルプスが望める風光明美な小淵沢へ移そうと。このお墓を2つの家族が一緒になった象徴として建てようと思ったのです。新しい息子夫婦や孫たち、みんなが賛成してくれて、妻の前のご主人と早世した息子の子どものお骨もこのお墓に移すことになりました。息子も「娘たちに手を合わせるという気持ちを伝えることができて、ありがたく思っています」と言ってくれました。 正面には大きな「和」の一文字が力強く刻まれています。この「和」の字は息子が渾身の想いで書いてくれました。そのわきの自然供養塔は東京の墓から移設したもの。そして反対のわきには我が家の歴史を記した顕彰碑を建てました。 家族みんなが心安らかになれる場所。二つの石の重なりは、過去と未来のつながりの象徴であり、二つの家系の融合のしるしでもあります。「和」の心をもって強いきずながこれからも末永く続いていくことを願ったお纂ができて、本当にうれしく思っています。



一休禅師の「死にはせぬ どこにも行かぬ…」を墓碑銘に

福岡県 横山様

お墓建立の際のエピソード

私の父は、日航機が御巣鷹山に墜落した年の、昭和60年8月に他界しました。母は、東日本大震災が起こった平成23年2月に他界しました。 この日、福岡では珍しく雪の朝でした。病院から母の容態が急変したと電話があり、いつもなら、車で14、5分走れば着くのですが、積雪の為大渋滞、抜け道を探し、焦る気持ちを抑えながら、病院についたのは約一時間後。妹や、甥や姪などに囲まれて息を引き取った後でした。享年83歳の母の最期の日でした。 その日のうちの通夜、あくる日の葬儀は、目まぐるしいほど忙しく、涙を流す暇さえありませんでした。私が、涙を流したのは、葬儀の終わったあくる日の朝でした。疲れている筈なのに、朝早く目が覚めました。炬燵に入り一息つくと、急に涙がこみ上げてきました。止めどなく涙が溢れてきました。後から、後から涙が溢れてきした。私は声を上げて母ちゃん、母ちゃんと泣き叫びました。 家内と、長男と、長男の嫁がその泣き声で、目を覚まして起きてきました。私は、恥ずかしいとか考えることも無く、約一時間近く泣き続けました。あくる日も、又、同じく朝起きて母ちゃん、母ちゃんと泣き続けました。65歳のじいさんが泣き続けました。2日間泣いたら涙が枯れたのでしょうか、3日目からは涙が止まりました。その後も、母を亡くした悲しみはありましたが、泣くことはありませんでした。それから数か月が過ぎたころ、ある新聞のコラムに一休禅師のこの言葉が掲載されました。「死にはせぬ どこにも行かぬ 此処にいる 尋ねはするな 物は言わぬぞ」。この言葉を読んだ私は、何か熱いものが胸の奥からこみ上げてきました。お袋は、どこかに居て俺の事を見守ってくれている。この、言葉から私はそう感じました。私も、来年は古希を迎えます。 家内と、以前から終の棲家は納骨堂を考えていました。今年の2月に思い立ち数件の霊園を訪問し説明を聞きましたが、何か決めることが出来ませんでした。最後に訪ねた霊園でも、納骨堂を見せてもらいましたが、やはり決めてとなるものが無く、又、出直してきますと帰りかけた時、霊園の方が納骨堂も良いですけど、こんなお墓もありますよと、案内してくれたのがこのお墓です。0.6坪の小さな墓ですが、価格も、納骨堂とあまり変わりませんでした。コンパクトで桜の模様も有り一目で気に入りました。家内と相談し小さいながらもやはり、お基が良いねとその場で決めました。 その日のうちに、仮契約を済ませ、竿石には何と刻むかと考えました。○○家、南無阿弥陀仏、愛、絆、ありがとう、等々他家では数多くありました。私は、一休禅師のあの文言を思い浮かべました。長文なので無理かなと思いましたが、後日、霊園の方に相談すると、快く承知してくれました。だからその文言を刻む事をお願いしました。追加料金を取られることも無く、無理な注文を叶えてくれたことを感謝しています。



かけがえのない亡き人との思い出を偲ぶ事を願い、墓碑には「静偲」

大阪府 小栗様

お墓建立の際のエピソード

“墓じまい”最近テレビなどでもよく聞く言葉ですが、実際の言葉の意味を理解していませんでした。私は長男で、岐阜県に生まれ、現在は大阪で生活しています。岐阜には両親と嫁いだ姉妹が生活しています。 ここ数年は、年老いた両親の介護で、月2回程、妻と行っているのが現状です。そのような生活の中、平成27年3月に父が他界し、納骨をする事となりました。父が作った、祖父母のお墓が、岐阜県にあります。でもそのお墓は、納骨が出来る墓ではなく、父の遺骨を納骨するには、お墓を作り直す必要が生じました。 私は現在61歳、岐阜への月2回の帰省も、今後いつまで続けられるか?(今は母が居るから頑張って行っていますが)それを考えたとき、岐阜のお墓を作り変えても、長男の私が守っていくことは無理だと思いました。それと、もう一つの問題として、私には娘が2人いますが、2人共嫁ぎ、小栗の姓が私で終わることです。私たち夫婦が他界した後、岐阜の小栗家先祖の墓を娘達に頼む事はできません。 “無縁仏”最近どこの墓地、霊園でも見られる現状です。岐阜の墓地でも隅に集められた、沢山の無縁仏の墓石が目に留まります。私達が帰省できなくなれば、近い将来こうなると思いました。その後半年程考え、姉妹、母の承諾をもらい、私の生活の場である、大阪府枚方市でお墓を作る事を決め、霊園を見学に行き、そこで姓が違っても、一つの墓に入れる事を知りました。この時点で、型は洋風に決めました。墓地も家から数分の散歩コ-スで見つかり、後は墓石に刻む文字だけになりました。 とは言っても、亡き父も、墓の移転を許してくれた母にとっても、知らない土地です。 少しでも寂しくないように、墓石には岐阜の生家の庭に多く咲いていた、ユリの花を刻んで頂く事を決めました。そして文字は、この墓の前にお参りに来たとき、誰もが心静かに、自分の人生において、かけがえのない亡き人との思い出を偲ぶ事を願い、「静偲」に決めました。 そして、片方の花筒に「小栗家」と刻んで頂き、後、片方は空けてあります。 少子化の現在、私達のような家族が増え、お墓に対する思いも、変わってきました。私達夫婦も、子供たちに負担をかけるのなら、お墓は要らないとも考えました。だから娘達夫婦に、このお墓に入れとは伝えていません。 でもいつの日か、娘達がお墓を必要となったとき、このお墓に入ってもいいと思えば、もう片方の花筒に、名前を刻んでくれることを願って、このお墓を建てました。



息子に贈れるかけがえのないプレゼント。そうだ!お墓をつくろう!

京都府 相原様

お墓建立の際のエピソード

60代後半もあと僅かとなり、さりげなく息子と終活の話をしていた際、息子の「お墓もそろそろ考えないとな~」のつぶやきにビックリ!実は私たちは『二人の遺灰は一つに混ぜて故郷の海に撒こう』と想っていましたので。「私たちのお墓がほしいの?」「勿論、要るよ!出来れば、歩いて行ける所がいいな。毎日行けるし。」 思えば私自身、仕事のストレスなどで行き詰まったとき、故郷の両親のお墓にぬかずき墓石に両手をあてて、数十分を過ごすことで、大きな癒しと安らぎを得、リフレッシュして帰ることの出来た体験を何度も持っていました。 『息子に贈れるかけがえのないプレゼント!お墓をつくろう!!』 そう決めた折も折、石材店さんからの1枚のチラシが舞い込みました。場所もなんと、息子の家から歩いて十数分の墓地に!!墓石は安定感と柔らかな優しさとをイメ-ジした型に。前面には、夫の筆によるファミリ-名と、我が家の庭に春を一番に運んでくる清楚で香り高い水仙をファント-ニ彫で。そして、我が家の家訓ともいえる三文字『信・望・愛』を三人の孫に一字ずつ墨書してもらい、背面に大きく入れて頂きました。 墓石完成の4ヵ月後に106歳で亡くなった夫の父の遺骨を分骨して頂き、納めました。息子は毎日、孫を伴って早朝ランニングを兼ね、大好きだったおじいちゃんに会いに行っています。近くに住んでいても、お互い多忙にまぎれ、月に2~3回しか会わない息子の家族とも、お墓に入れば毎日会えるなぁと楽しみ(?)にしています。



水浸しの古いお墓を嵩上げ大幅改修。前のお墓の「信念」はそのまま

福島県 佐藤様

お墓建立の際のエピソード

私が嫁いだ先の祖母に遺骨(祖母の夫)をお寺に預けてあるから、畑の一角でもいいから墓を建てて、一緒に納骨してくれと頼まれたが、畑は困る、何とかするから…が2年もたたず祖母は逝ってしまいました。 祖母の3回忌に約束の墓を市の公園墓地に求め二人を納骨したのが、今から50年前の若い頃でした。 その頃流行し出した、背の低い横棹にしたものの「○○家」はどうも….と考え悩み、何をその当時考えて決めたのか覚えていないが「信念」という二文字選び、小さく「佐藤家」にしました。 この墓が15年前頃から、墓参りに行き掃除をしたり、水をかけたりすると、骨の入っている地下からピッチャン、ピッチャンと水の滴る音が聞こえるようになり、それが年を増すごとに大きな音がするようになった。墓が古くなって地下の水抜きが悪いものと思い、いずれ自分たちもこの墓に入ることを考えたら、水の中は嫌だからと改修することにしました。 改修工事をするにあたって、石材店さんと墓地で待ち合わせ。その日がなんと大雨・長靴をはかないと辿りつけないほどの雨水に、石材店さんが「これでは水琴窟になるのが当たり前」にびっくり。大雨の時など、よもや墓参りする人はいないから。改修届けで市役所に出向き、このことを話すと上の方もそうなってたか、下の方は排水路付けたという言葉に二度びっくりです。 魂を抜くにあたり、お坊さんから40年以上たっているからもう骨は無いと思う、土を少し持ち帰り、完成するまで自宅で供養するように、これが驚くなかれ水の中に入っていたから骨がしっかり残っていました。自宅へ持ち帰り庭に広げて、割りばしで転がしながら骨と泥を数日かけて乾かしました。 石材店さんに「一代で墓を改修するにしても、二度造る人は珍しいよ」に、自分たちもそうだと思いました。前に造った時の石材店さんではなかったので、棹と墓誌などはそのまま使用し、水が入らないように高く底あげを条件に改修工事を依頼。 完成したのが東日本大震災の3年前でした。おかげで震災でも倒れず助かりました。高くなった墓の仕上がりを見たとき、若い時「何を….の信念」の文字は、長い人生山あり谷あり、苦労の連続の中でも我を見失わず、強い信念をもって歩み続けてこられたのは、先祖のお導きか、自分の人生、そのものを表していることに、今76歳になって気がついた。そう私の『人生』=「信念」だったのだ。この字を選んで本当によかったと思っています。 今当市では津波、原発事故関連死や墓地流出などで墓地が不足し造成中です。



温もりのある木製のベンチ付きお墓

千葉県 黒沢様

お墓建立の際のエピソード

57歳で逝った主人を偲び、頑張って生きてきた証を残したいという思いをのせて、お墓をデザインしました。墓地は都立八柱霊園に2度目の挑戦で、少し広めのものを準備することができました。墓石に関しては、以前より親しくさせていただいていた石材店にお願いいたしました。墓地の申し込みから墓石の建立まで石材店さんには、本当にお世話になりました。自分のイメージや希望を形にしていくことは想像以上に難しいことでした。それを石材店は親身になって聞いてくださり、プロの経験や知識をもって、たくさんのアドバイスをしていただきました。 まず、墓石と外柵ですが、本人の優しかった人柄を墓石の形を丸型にすることや、外柵に緩やかなカーブ、をつくることで表現しました。そして、墓石には主人を一文字で表現できる文字を家族みんなで考えました。大変穏やかな性格の人でしたので、最後まで候補に残ったのは「穏」と「優」 でした。しかし、実際に墓石にのせてみると「穏」は暗いイメージになったため「優」に決定しました。花立には「慈」 と「愛」です。家族のために一生懸命に生きてきた主人を表現した三つの文字は次女の直筆で、墓石を一層ひきたててくれています。 また私たちが挙式した時のブーケに使われていたお花がプルメリアです。これを、お墓のどこかで使いたかったので線香置きにプルメリアをあしらいました。最後に、墓石の手前の空間に、主人が最後まで頑張って働き、こよなく愛していた会社制作のベンチを置きました。このベンチが一番悩んだところです。石材店さんは3Dの図面で何度もイメージを伝えてくださいました。墓石に合わせて磁器のスツールがいいと思いましたが、どうしてもしっくりいきません。結論が出せないため、長野で設計事務所をやっている知人に相談に行きました。そこで、先輩と一緒に長野の神社や仏閣もいろいろと見学してきました。外柵のカーブはその時にヒントをもらいました。そして、知人の「石に石をもってくるよりも、素材の違う木のぬくもりが空間を柔らかくしてくれるのよ。木製のベンチをオーダーで作ると最高のものになると思うよ。」の一言で目から鱗が落ちるような思いがしました。主人の勤めていた会社にお願いすると快く引き受けてくださいました。木製のベンチは墓石を引き立てるよう、柔らかく温かい空間になりました。その木の温もりはまさに主人を表しているようです。お墓に行った時は、ベンチに座って、しばし主人と語らいの時間をもっています。 周囲の方々・家族みんなの協力があったおかげで、三回忌には主人は新しいお纂に入ることができました。それまでは自宅に遺骨を置いていたため、少し寂しい気持ちもありましたが、霊園に行ってお墓をみる度に、思いのたけを載せたお墓に主人が安らかに休んでくれていることに満足しています。お慕を建てるということは、大変なことではありましたが、皆様の優しい気持ちにも触れることができ、ひとつの大きな仕事をなし終えたという充足感を持つことができました。



元三州瓦の製造元。和瓦のデザインを生かしたお墓。

千葉県 尾﨑様

お墓建立の際のエピソード

義祖父で四代続く三州瓦の製造を愛知県で営んでいました。当然主人も五代目となる予定でしたが、製造業を辞めることになり、関東にて屋根材の販売及び工事を中心とする会社に勤めることになり、現役で病に倒れ亡くなりました。当時お墓は愛知県にあり、その流れで主人を埋葬しました。 ちょうど、一周忌を終えるころ、以前より関東でいつでもお墓詣りできないかといつも頭の隅にありました。そんな頃、石材店の方の勧めで八柱霊園の抽選会に参加することになり、幸運なことにお墓を建立することができるようになりました。 それから改葬準備をして、愛知県のお寺のご住職のご協力を得てスムーズに法的な手続きができ、私は今までの思いをお墓の形に表現したいと思い家族と相談。先代より四代続く三州瓦の製造、また主人は販売業中心でしたが瓦に対する思いをいつも近くに感じていたことを思い、和瓦のデザインをお墓の形に表現したい思いで無我夢中でスケッチをした次第です。今回初めてなことでしたが、私のイメージを石材店の方が具現化していただき、イメージしたデザインのお墓になり、先祖代々また主人も喜んでもらえると一方的ですが、私は満足しおります。



水墨画の○に、いたずらで目と口を入れてみると

東京都 丸山様

お墓建立の際のエピソード

最初は一文字がいいと思っていたので、お坊さんに相談したり、ぎりぎりまで悩みました。水墨画の本の中に「○」まるを見つけた時、これだ!これしかない!と思いました。簡単だと思っていたけど、書けば書くほど変になっていくのです。そんな時、このまる、目と口を入れたらどう?といたずらしたのが、全員一致で決まりました。猿は最初から決まっていたので、合わせて私たち家族の象徴になりました。



二人の歩みは、二人の思いを縫い合わせてでき上がった道

群馬県 加藤様

お墓建立の際のエピソード

一針一針縫ってきた道が続いている。二人で歩み始めたその日からずっと続いている。今揃って振り返るとすばらしき人生だった。二人の思いを縫い合わせてでき上がった道だと改めて思います。 子育て、仕事に夢中だった日々。二人とも教員として忙しかったけれど、子ども達の輝く顏は何ものにもかえ難かった。自分の子どもと、学校に来る子ども達の成長とを実際に感じる事ができたのは何より幸せであったと思います。 我が子の子育てに迷ったり、仕事でどうしていいのかわからなくて悩んだりした事も今では懐かしくさえ思えます。退職後、本格的に取り組んだ写真やはがき絵を通じて自然の豊かさに感動し、人との出会いに感銘を受けました。この思いから墓石正面には、『縫』(妙義山麗美術館のはがき絵展出品の妻の受賞作品)と刻みました。 そして裏面には『ひと針ひと針縫うように、一歩一歩前向きに、一瞬一瞬の自然に感動し、ひと筆ひと筆に心を込めて、一人一人との出逢いを大切に、人生を縫い上げた証として ここに刻む』と彫って頂きました。



たくさんの石が束になって立っているイメージで支え合う人を象徴

愛知県 榊原様

お墓建立の際のエピソード

着想は単純でした。愛おしい人の眠る場所が、寂しい場所になって欲しくない、ただそんなことを考えていました。 ふつう、お墓は、垂直に建てられた墓石が凛と一本立っている。時代を超え、世代を超え、力強く、多くのものを背負ったように立っている。それはそれで、とても逞しい姿だと思います。それを否定する気持ちはないのです。 けれども、今回のお墓を建立するにあたって、そんなふうに一人で、立っているような姿よりも、たくさんのものが束なってひとつの全体像を形作っているほうが、どこか似つかわしいのではないか、寂しくないのではないか、そう思いました。 それは、東日本大震災が起こってしまった後だったからかもしれません。人はひとりでは生きていくことができない、ということを痛感していました。あなたがいて私がいる。旦那さんや奥さんがいて、両親がいて、祖父がいて、子どもがいて、孫がいて。そんな重層的な繋がりのなかで、やっと自分がいる。いろんな関係を築きながら、支え合って、なんとか生きている。人が生きるとは本来的にそういうものではないでしょうか。 みんなが支え合って生きている、そんな姿をこのお墓で表現できないか。具体的には、いろんな高さで切り出した120mm角の御影石を、ただただ寄せ集めました。 ひとつでは立つことが不安定な棒状の石を集合させることで、安定して、立っている。ばらばらの高さの石が、無邪気に集まってひとつのかたちをつくっている。石のたば、そういう状態をお墓と呼んでみようと思いました。そうすることで、具体的なお墓の形というよりも、たくさんの石が束になって立っているという漠然としたイメージだけが認識されます。そんなイメージが、遺された者たちの中に、支え合った近しい人との生活の記憶を喚起してくれることを目指しました。 死者との生活の尊い記憶が、現在の生活と一緒になって、「たば」になって、美しく思い出されるきっかけを生む場所になることを祈っています。



今を生きるあなた達がお互いを想いあってね

兵庫県 岸本様

お墓建立の際のエピソード

東の竹林の向こうに姫路城、背後に桜を望む場所に生前墓を建てました。墓石は好きなピンク色の石を選択。「いつもあなた達のことを想っているよ」「時には私たちのことを想いだしてね」そして「今を生きるあなた達がお互いを想いあってね」という意味(想い)を込めて「想」の一文字を刻みました。「想」の心の点々はその人や、その人その時の気持ちによって花びらにも、ハートにも涙にも…etc見えるよう??と深彫りして頂きました。 高度成長期に育ち、我が家にも黒電話がきて、ベルの音にときめいた中一の夏を今もはっきりと覚えています。OL時代はバブル全盛期、でもアッという間に弾けて会社は倒産。尊敬する上司、苦労を共にした同僚との悲しい別れもあった。それでも懸命に働いて息子達も無事大学を卒業し、それぞれに巣立っていきました。今は子供のようになった母との三人暮らし。もうすぐ父が亡くなった年齢を追い越す自分を不思議に思います。日々泣いたり、笑ったりしながらも、たまには主人と旅など楽しみながら、最後は同じ墓で静かに眠ることを目標に、そろそろ終活の開始です。まずは、もう少しやさしくしなくっちゃね。



「あべのハルカス」型墓石、天王寺動物園をイメージして象や熊

奈良県 炭谷様

お墓建立の際のエピソード

亡くなった母のためのお墓です。故人がどういうお墓で眠りたいのか?を考えつくしました。「お墓を母の故郷に見立てよう」生まれ育った大阪市の天王寺をイメージしたお墓です。 墓石の形は日本で最も高いビルである「あべのハルカス」。墓石の周囲には天王寺動物園をイメージして象や熊、ウサギのオブジェを。石材店との打ち合わせの中で、はじめは冗談のような感じで言っていましたが、図面や彫刻の原稿を見るうちに、亡き母のためにしてあげようという想いになりました。きっと母も天国で喜んでくれていると思います。



満月は丸い石の球、人工ダイヤモンド150個をちりばめて星を表現したお墓

静岡県 望月様

お墓建立の際のエピソード

私は今年87才になりますが30年前からずっと考えていたことがあります。 それは「これからのお墓のあり方はどうあるべきか」ということ。 私には先祖代々に渡っての古いお墓がありました。今までのお墓は「暗っぽい」「湿っぽい」イメージがあり、あの重たい石の下には入る気がしませんでした。 これからのお墓のあり方を考えた結果「お墓を通して故人の遺志を子孫に伝えなくてはいけない」という考えになりました。ただ故人を偲ぶだけのお墓でなく、その故人がどのような遺志を持って生きてきたかを伝えられるお墓にしたい。 80年の人生で得た一番のノウハウを伝えたい一心でお墓づくりをしました。 そのためにしたことが3つあります。 1つ目は「楽しい」「明るい」「また行ってみたい」と思えるお墓にすること。人生は楽しむべきだからお墓も楽しくなくてはいけない。このお墓は昼と夜を表しています。私の名字は「望月」です。意味は「満月」。満月は太陽がないと輝けない。そして、満月の夜空には無数の瞬く流星が広がります。それを芸術的に表現したかった。 満月はローズクオーツの球、太陽はオブジェを貼り、星には人工ダイヤモンドを150個、埋め込みました。そして、望月家の家紋である「九曜星」を表現するため大きなダイヤモンドを9つ入れています。実際、近くを通った人が「面白いお墓がある」と見に来きていただけるので喜んでいます。 見て楽しくなるお墓なら子孫にも気軽に来てもらえる。そう考えています。 次にこれから継いでいく子供たちのことを思いお手入れのことを考えました。 以前から娘にお墓参りに行くと草取りが大変で半日かかるので、何かいい案はないかと言われていました。雑草が生えないように敷砂利を無くし、柵も外し掃除しやすくしました。 また、周りに建っているお墓を見ると造花を飾ってあるところが多く、そこには魂が入っていないように感じていました。だから、一年中、生花があるように小さな花壇をつくり、天水を貯められるように工夫をしました。このおかげで水を上げにこなくても草花がもつようにしました。1年ほど経ちますが、今では草花が育ち増えています。これは世界にひとつだけのアイデアはないかと思っています。 そして、「いつまでも見ていたいお墓だね」と言ってくれた娘にゆっくりできるようにと思って近代的なデザインの椅子を置きました。娘をはじめ、お手入れがしやすくなったお墓に子供たちは喜んでくれ大変好評です。 2つ目は、子孫へ私の願いを残すこと。 私の願いは「明るく、楽しい人生を送ってもらいたい」ということ。その想いを込めて墓石にこう彫りました。「昼は太陽の様な明るい笑顔で話しましょう」「夜は満月の様な爽やかな笑顔で話しましょう」私は「笑顔」が人生で一番大事だと思っています。笑顔で戦争をする人はいません。笑いがあれば仲良くなれる。だから、子孫には昼も夜も(良い時も悪い時も)笑顔で話し合える人になってもらいたい。人との付き合いは「笑顔が大事」だと、この年になって痛切に感じています。それを子孫に実践してもらいたいと願いをお墓に託しました。1年に1度でも2度でもいい。お参りに来てくれたらこの文句を読んでくれて、笑顔の大切さを思い出してほしいと願っています。 3つ目に、私は常々お参りに来てくれた方にお礼を伝えたいと考えていました。 そのために、墓石の右側には、お参りの記録帳をつくりました。お参りに来てくださった方が、名前と連絡先をノートに残してもらえるようにしました。そうすると、今までお参りに来てくださっていることを知らなかった方、遠くから足を運んでくれている方などの存在を知りました。そして、お礼を伝えるため電話をしました。何年かぶりの懐かしい声にお互い喜びました。今ではこの記録帳を開くことが楽しみの一つになっています。私は記帳してくださった方には、必ずお礼の返事を書いています。次に来た時に見てくださったら喜んでくれるのではと思うからです。一方通行ではない、お参りに来てくださった方々と心が通うお墓になったと思っています。 「子孫のためになるお墓」 私は、将来、こうあるべきだというお墓の見本を作ったつもりです。 実際にお墓をつくって感じたことは、これからのお墓は自分たちが思ったように作り変えられるお墓の時代になるのではないかということです。私は今のままだとお墓参りに来る方が少なくなっていくと感じています。お墓が美術、芸術作品のように並べば、それを観賞しに人が集まる。古いお墓が並ぶ墓地だからこそ、私が建てたお墓を見て、「古いお墓もこんな風に自分たちの意志を伝えられる明るいお墓なるんだ」とリフォームする方が増え、墓地全体が明るくなったら嬉しいです。このお墓がその布石になることを切に願っています。私が長年構想を練ってきたお墓が実現できたこと大変満足しています。私の最後の大仕事を実現してくれた石材店さんには大変、感謝しております。



墓碑銘は、河村の河をとって「河のながれのように」

山口県 河村様

お墓建立の際のエピソード

【動機】 26年前、父が他界して長男の私が墓所を引き継ぎました。そこには、腕の良さが島根県にまで聞こえた鍛冶屋を営んでいた祖父や曽祖父も眠っています。 子供のころの実家は活気がありました。真っ赤な炭火、熱い鉄を打つ向こう槌音、急冷された鉄がジュッと立てる湯気。近所の悪ガキと佐波川で魚を取る時に使うヤスをこっそり作ったり、話好きの父を訪ねてくるお年寄りのおしゃべりの場でもあったりだったのですが、父の死後は墓所だけが河村家の流れを伝える所になってしまいました。それも父が建てたのはコンクリート製で、ひびが入り、角がボロボロと欠け落ちてきたものですから、建て替えを考えなくてはならなくなり、デザイナーの次男に相談して進めることにしました。 【お墓のコンセプト】 このとき突き当たっていたのが継承という問題です。「○○家」という考えがなくなっていく当節、ならば、誰でも入れる、だれもが是非入りたい!と言える墓を作ろうと、発想を変えることで一念発起しました。碑文は「河村家」の「河」を取って『河の流れのように』。ふるさと佐波川の流れに抱かれて……。これで、我が家の墓のコンセプトが固まりました。 次男が持って来た案は、最近テレビなどでよく見るデザイン墓石のプランでした。昔ながらの三段墓が立ち並ぶ墓地なので腰が引けてきたのですが、息子達が管理人に了承を得てくれたりして推進してくれるものですから、妻共々、墓を建てることがだんだんに現実化してきました。2015年夏のことです。 【お墓づくり】 次男とのプランのやり取りは年末までの半年間、何度も繰り返されました。「河村家」と彫る部分をなくす一方、家紋を意匠として随所に彫っています。河の流れ……自分もまた、一雫の水となって、その壮大な流れに合わさって流れていく。命は永遠……碑文にこめた想いは、手前の流れ模様を施した床面につながっていきます。墓所のすぐ近くを子供の頃遊び場だった佐波川が流れていて……と、プランが修正されていく度に、この地に建てる墓として、意味の深いものになっていく感じがしました。 【墓所の完成】 2016年3月、お墓が完成しました。 その時、二人の息子からサプライズの贈り物がありました。4つ設けた花立の中で、両袖の墓誌前に置かれた花立に、ステンレス製の花のオブジェが取り付けられたのです。次男が、子供の頃聞かされた父親の鍛冶屋のころの思い出を、金属素材で表現しようと、同郷出身の金属工芸家の先輩に製作してもらったそうです。花びらのハンマーの跡を見ると祖父が叩いていた鉄を思い出しました。間口が広いことを利用して、段の両脇をベンチにしたのも、私の思い出話から発想したんだそうです。 そこに座ると右田ヶ岳が見えます。昔と変わらない風景。ここに、縁ある人が、来たいとき来て座り、語らっていく、あの、昔栄えた鍛冶屋のころのように……。 私が思う以上に家族が思いを込めてくれて、幸せなお墓づくりをすることができました。

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