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有名人のお墓

マーラーの墓 1860-1911

「これからは誰がシェーンベルクのことを心配してやるんだ。」
病状が悪化し、死期が近づいていたマーラーは、若き友人のことをしばしば気にかけていた。今でこそ“現代音楽の始祖”とまでいわれるシェーンベルクだが、人々が彼を認めるのはずっと後のことである。マーラーはシェーンベルクを嫌う妻のアルマに「見ててごらん、今に彼の名は世界的になるから」と予言した。「やがて私の時代が来る」こう言って自らの芸術と精神を信じたマーラー。この予言もシェーンベルク同様的中したが、彼が生きた五十年の間、その時代が訪れることはなかった。指揮者、オペラの演出家としては輝かしい栄光に包まれたが、作曲家として報いられることはなかった。
グスタフ・マーラー。1860年7月7日、オーストリア生まれ。ゲルマン系ユダヤ人である両親は酒の醸造所を営んでいた。息子に音楽の才能を見た父は、ピアノを習わせ、音楽家としての基本を習得させた。ウィーンの音楽院を卒業したマーラーは、指揮者として生計をたてるようになる。29歳でブタベスト・オペラの監督に就任。芸術的に行き詰まり、財政的にも窮乏していたブタペストを世界的な水準にまで押し上げた。
その後、ハンブルク・オペラの指揮者となるが、さらなる飛躍を目指したマーラーは、オペラの中心地への進出を試みる。しかし、そのためには、”ハンデ“を克服する必要があった。多くの実力者は、ユダヤ人が高い地位に就くことに強く反対していたので、マーラーはユダヤ教からローマ・カトリックに改宗している。新たな洗礼によってヨーロッパ文化へのチケットを手に入れたマーラーは、ウィーン宮廷歌劇場の指揮者となる。そして、その数週間後、早くも芸術監督に任命された。1902年、アルマと結婚。同年、長女マリア誕生。翌年、次女アンナ誕生。しかし、1907年マリアが死亡。ふたりは悲しみに打ちひしがれる。同年、十年間のウィーン生活に別れを告げ、ニューヨークへと渡った。
子供の死、新世界アメリカでの生活がマーラーに変化をもたらした。それまで頑なにノーカットで上演したワグナーを、慣例に応じて簡単にカットするようになり、少しのミスも許さなかった完璧主義者が、人の失敗を楽しむようになった。確執の多かった夫婦生活に平穏が訪れ、嫌っていたパーティーへも喜んで出かけるようになった。ウィーン時代は敵意と嫉妬に包囲されたが、アメリカでは皆好意的であった。穏やかな幸福の日々。しかし、それも長くは続かなかった。マーラーはその最後の日、虚ろな目をしてベッドに横たわっていた。呼吸が困難になり、酸素吸入が施された。一本の指が掛け布団の上で指揮をしている。唇に微笑みがもれ、「モーツァルト」と二度言った。これが最後の言葉だった。1911年5月18日深夜、凄まじい嵐の日であった。

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