【ご注意】
こちらに掲載されているお墓は、ご応募された方が想いを込めて作っておられます。安易に模倣等されないようご配慮をお願い致します。
山口県 植本様
父がこの世を去ったとき、私たち家族は、形に残る何かをしっかりと考えたいと思いました。父がどんな人生を歩み、どんな人だったか、それをただの石の形ではなく、「意味のある形」で残したい。そう思って選んだのが、ピラミッド型のお墓でした。一見、少し変わって見えるかもしれません。でも、ピラミッドという形には、私たち家族の深い祈りと父への敬意、そして未来への願いが込められています。
ピラミッドは、古代から“永遠"の象徴とされてきた形です。何千年も風雨にさらされながら、それでも崩れずに残ってきたあの姿に、私たちは「人が生きた証」を重ねました。父もまた、目立つことを好まず、でも確かに多くの人の心に残るような、静かで芯のある人でした。
その生き様を、ただの記憶として風化させたくなかったのです。そして、ピラミッドは、太陽へ向かつて魂が昇っていく”光の階段”だとも言われています。
天に向かつてまっすぐに立ち上がるその形が、父の魂の行く先を導いてくれるような気がしたのです。きっと父も、自分らしい形でこの世を旅立ち、あの静かな空の向こう側から変わらず私たちを見守ってくれる。そんなふうに感じたからです。
宇宙のエネルギーを集めるアンテナとも言われるピラミッドには、目に見えない力が宿るとも聞きました。父が過ごした時間、私たちと交わした言葉、支えてくれた日々、そうしたものすべてがこの形にそっと込められていると思うのです。
私たちは、このピラミッドにただの石ではなく、父の人生そのものを刻みました。そこには、強さも優しさも静けさもあたたかさもある。だからこそ、この形を見つめるたびに思います。「やっぱり、お父さんらしいな」って。
青森県 M (匿名希望)様
家族旅行中に父の危篤…急いで、帰りのチケット手配しましたが、聞に合いませんでした。前日までご近所さんに元気な姿を見せていた父。「家のことは心配しないで旅行楽しんでいっておいで」と快く送り出してくれた父。
葬儀が終わってしばらくお墓の話は出ないまま半年くらい経ったころでしょうか?娘が小学校入学の頃、ランドセル背負う姿みせたかったな一、話す場所がほしいな一、手を合わせる場所がほしいと思うようになり、お墓の提案をしました。すべてが初めてのことだらけで、石材店からお話を聞き霊園巡りからスタートしました。
なかなか思うようなお墓が見つからず時間だけが過ぎていきました。ふとインターネットで検索すると和洋型というデザインが自に留まり、石材店へ出向き実際見てみると家族一致しました。
父の生きた証…そして私も入るお墓。正面の文字は「ありがとう」。私がお墓に入る時も家族から「ありがとうね-」 と言ってもらいたいという意味を込めて…
墓誌には父の好きだった朝顔を象嵌加工してもらいました。メインで使われる石とは別の種類の石をはめて、イラストなどを表現する加工技術です。娘の成長の度に墓前に手を合わせ報告しています。ずっと私たちを見守っていてね。
埼玉県 中村様
私は17 才~80 才迄の63年聞を、レコードを聴くためのステレオ装置を作る仕事に携わってきました。蓄音機の時代からLPレコードや、3分で演奏が終わってしまう78回転のSPレコードの時代からステレオ製作の仕事に携わってきました。
お慕建立の相談に石材店を訪れ、石材店社長に自身の仕事の話をしたら新しいお墓の提案を受けました。当初はこんなお墓が作れるとは思ってもいませんでした。
私自身もジャズやクラッシックなど音楽を鑑賞するのが好きです。現在はどんな音楽も間きますが、主にクラッシックを聞くのが好きです。フランスの作曲家で「ガブリエル・フォーレ」のレクイエム(死者の為のミサの曲)が心に響きます。ベートーヴェンでもモーツァjレ卜でも「レクイエム」は素晴らしく好きです。ジャズピアニストの「ピル・エヴァンス」もよく聞きます。
仕事を通して作曲家や演奏家、お医者様など音楽が好きな方との沢山の出会いがありました。お客様に先導されて生の音を間くためにライブにもたくさん足を運び、その生の音に近付きたい思いで仕事をしてきました。
レコードにはデジタルにはない音の持続性があるように感じるし、今の若い方にレコードの良さを知ってもらいたい。このレコードをモチーフにしたお墓は家族も喜んでくれている。孫は元々音楽が好きで、影響されて興味の無かった息子も音楽を聴くようになりました。
孫がおじいちゃんの音楽の道具は自分が引き継ぐと言ってくれているので、お墓も護ってくれればと希望を持っています。私自身は山登りやスキーなど好きな事をしてきましたが、今は施設に入っている妻が支えてくれたおかげなので、お墓を喜んでくれたかどうかは分からないがつくって良かったと思っています。
長野県 北原様
中学生の同級生で同じ高校に進学した縁で妻と結婚致しました。4人の子供
を育て上げ、孫に固まれさあこれから二人で人生を楽しもうとしていた矢先、妻が病に倒れ、若くして亡くなりました。
先日、納骨法要を済ませた折、菩提寺の池に蓮の花が咲き誇っておりました。
「白い蓮も素敵だけれど私はピンクの蓮が好きだわ」と目を細めながら呟いて
いた姿を思い出しました。「蓮の花を見ると観音様が手を開いていて、全てを包み込んでくれるようでホットする」と妻は若いころから蓮の花が大好きでした。
一年前お墓を建立しようと思い、唐木屋石材工芸の会長に相談いたしました。
まず一番に家族の中心であった妻の姿を観音様に、妻の好きだった蓮の花と融合させた墓地を希望致しました。
「会社の技術の粋を結集して、奥様への思いを込めた設計を致しました」との図面を見せて頂き大変気に入り、すべて信頼してお任せ致しました。完成した墓地は妻が観音様になって優しい眼差しで家族の一人一人を見守ってれているかのようです。大好きだった蓮の花の上で……今では静かに手を合わせ妻といろんな話をしています。家族の拠り所となりました。
宮城県 石田様
墓石に刻んだ『日日是光日』は、歴代の家族の絆を表す言葉です。この表題を見て、「光日」は「好日」じゃないかと、多くの方がおやっと思われたのではないでしょうか。
墓石も決まり、石材店から墓石に刻む文字は決まりましたかと催促された時、はっとひらめいたのがこの「日日是光日」でした。禅語の「日日是好日」の「好」がわが家の家系図に連綿とつながる「光」の文字と同音異義語であり、墓石に刻む文字にぴったりだと思いついたのです。
「日日是好日」は、今日の一日は二度とないかけがえのないひと時であり、全身全霊をこめて一日生きることが好日を見出すことに繋がるという、日々の生き方の大切さを説いている禅語で私たち夫婦が気に入っている言葉の一つでした。
実は私たち夫婦は、九州福岡県久留米市の生まれであり、仙台に移り住んで約50年になります。昨年10月、福岡市の本家から、急に久留米市にある菩提寺の墓をしまいたいと申し出があり、それまで合葬されていた本家、分家の遺骨をそれぞれが管理することを突然に提案されたのです。分家である自分たちの墓所は仙台に準備していたこともあり、この機会に墓じまいをして遺骨を移葬することに決めました。
11月には、菩提寺の墓石を解体するとの本家からの連絡が入り、慌ただしく両親、姉、二人の兄の遺骨を引き取り、仙台の墓所に納めることになりました。しかし、まだ墓石を立てていなかったので、私たち夫婦も石材店巡りを始めました。そして偶然にもある石材店で見た蔵王石という自然石に目を惹かれ、蔵王石を専門に扱っている石材店に建立をお願いすることになりました。
一方、幸いにも地元の学友が、法名碑だけでも仙台に移送したらと提案してくれ、この春、重さが250キロもある法名碑を、道のり1200キロある仙台まで軽トラックで運んでくれることになりました。
石材店夫妻と何度も協議を重ね、蔵王山の山並みを思わせる墓石、一輪挿しの供花と線香置きは地肌の自然石、そして九州から運んだ特大の法名碑(写真左)と、私たちの希望に沿ったデサインが実現しました。
どうして「日日是好日」を「日日是光日」に書き換えたのか。わが家の家系図につながる「光」の文字は、私の祖父の代から光次、光明、光晴と三代続いています。私は、祖父や父から名前に見合う人になれと教えられましたが、まだまだ修行が足りず、いつかは到達したいと思います。私の代は、兄たち二人が早世し、私が先祖の墓を引き継ぐことになりました。その結果、「光」の縁(えにし)は次の世代へと続いています。私も息子も孫もそれぞれ名前に「光」が入っており、孫まで数えると5代続いたことになります。「光」がわれわれ家族の絆を深めているように感じています。
「日日是光日」これから何代続くかわかりませんが、墓参りの際に、子供たちがこの墓標の前に佇まい、家系図に連綿とつながる「光」の由来、そして墓石建立に際しての私たち夫婦の熱い思いを次の世代に伝えてくれたら幸いです。
山梨県 持留様
20年前に東京から山梨県北杜市に移住してきたわが家には、代々続くお墓も墓地もありません。なので先妻が亡くなった時、全くのゼロベースからお墓づくりを考えることになりました。
「お墓をつくらない」という選択肢も当初はありました。しかし、息子たちの「何十年後でも、ここに来れば母親に逢えるという場所を、実家とは別に欲しい」という願いを尊重することにしました。家を出て大学院生として研究をしている二人の息子たちは、院卒後は山梨にこだわらずに仕事を見つけて生活をしていくことでしょう。であれば、私が住む家は継ぐ人がおらず、いつまで存在するかわかりません。高校卒業までの思い出がつまったこの地域に、恒久的な「お墓」という心のよりどころを求めるのは納得の行くものでした。
先妻も今妻も、入籍後に私の姓になりましたが、「私個人」と結婚をしたのであって、「私の家」に嫁いだという意識はないと思います。現に今妻は旧姓で仕事をしており、運転免許証は旧姓併記、銀行口座も旧姓にしています。
そんな、個人を尊重する私たちは墓石に「〇〇家の墓」という文字を刻むことに、どうにも居心地の悪さを感じてました。世の中的には、一族のお墓をつくることに心の平安を感じる人たちの方が多数派かもしれません。それはそれで良いのですが、私たちにはしっくり来ないのです。
悩んだ末、辿り着いたのがこのデザインです。お墓は奥の3分の2と、手前の3分の1、そして、その境界部分の3つのパートに分かれています。奥の無彩色の平らなところが「あの世」の世界。ベンチが設置されていて色彩がある手前の部分が「この世」の世界です。
「あの世」は石板で大きな平面を作り、そこに一人に一つ、個人名を刻んだ小さな墓石を並べていく場所です。亡くなった人が増えていけば、新たに墓石を作り、平面の上にバランスよく並べ直していきます。年齢順でいけば、次はまず私が亡くなるので、先妻の墓石を少し左にずらして二人の墓石を並べます。次に今妻が亡くなると、さらに左にずらして、3つの墓石が横一列に並びます。将来、息子たちもこのお墓に入りたいということになれば、私たちの墓石の位置を変えて、その手前か、もしくは奥に墓石を並べることになるでしょう。どうするかは、息子たちが決めることです。墓石は、それぞれが好きな素材と形、文字を選ぶことにしてあり、今のところ、私は自分の分はガラスの塊が良いと考えてます。しかし、現実に死期が近づくと気が変わるかもしれません。
先妻の墓石は、家の敷地内にあるたくさんの石の中から、息子たちと一緒に選びました。20年前に移住してきた私たち家族と共に時間を過ごしてきた石です。いくつか候補があったので、段ボールでお墓のモデルを作り、そこに石の大きさに丸めた新聞紙を置いて、どれにするかを決めました。
先妻は自然が大好きな人だったので、自然石の表面を削らずに、そのまま名前を刻んでもらっています。凸凹のある石の表面のまま文字を刻むことは難しいと、石材店の人は説明してくれましたが、私たちのわがままをかなえてくれて、とても満足しています。
「この世」の世界にあるベンチの座面には、お墓には使われることの少ない「木」という素材をあえて取り入れました。雨ざらしでも20〜30年の耐久性があると言われているハードウッドを採用しており、1世代ごとに1回程度、交換していくことになるでしょう。「この世」は生きているものの世界なので、新陳代謝があるのです。ベンチに座ると、墓石の先に先妻が大好きだった八ヶ岳が見えます。
「あの世」と「この世」の二つの世界の平面はゆるやかに内側に傾斜しており、境にある黒い丸石の溝に雨水が流れ落ちるようにしてあります。この溝は二つの世界の境界の「三途の川」なのですが、溝の幅をおよそ3寸としてデザインしたので「三寸の川」と呼んでます(諸々の都合で実際にはもう少し幅広になりましたが...)。「三寸の川」には、左右に花入れがあり、二つの世界の「端(はな)」をつなぎます。
お墓づくりには、私たちのことをよく知っている人たちに関わってもらいました。主たるお墓づくりには、仕事で直接の関わりがあり、先妻のお葬式や偲ぶ会の時にもお世話になった「いとう石材工業」。ベンチの部分には、共に20年近いお付き合いのある鈴木工務店と、金属造形作家の上野玄起さんの力を借りてます。一つひとつ由来と考えがあるモノづくりができたのが気に入ってます。
特に墓石の正面にベンチがあるのがとても良いです。そこに腰掛け、故人と過ごした時間を思い出しながら、ゆっくりとお話をすると、それはそれは心やすらぐのです。
埼玉県 宇佐見様
私は建築に携わる者として、人生の集大成とも言える「生前墓」を、自分らしく、そして我が家らしく作りたいと考えておりました。
お墓は単なる終の住処ではなく、家族が集い、語らい、未来を見つめる場であってほしい。そんな思いから、家族で何度も話し合いを重ね、カタチにしていきました。
墓石には「道」という一文字を刻みました。私と妻、そして息子と娘、4人で歩んできた家族の道。人生の道。未来への道。その象徴として、私たち家族がよく訪れた新潟県南魚沼の魚野川沿いを、谷川連峰を望みながら4人で歩く後ろ姿を、私が揮毫した「道」の文字とともに、彫刻として刻んでいただきました。
当初は、私と妻の二人を描く予定でしたが、「これは家族4人で築いた道だから」と妻が提案し、子どもたちも加わった構図に。今では、その後ろ姿こそが、我が家の大切な象徴となっているなと思います。
デザインには、建築に関わる者としてのこだわりも込めました。シンプルながらも美しく、風景と調和する停まいを大切にし、石材店の皆様とも何度も打ち合わせを重ね、理想の形を実現していただきました。
まだ65歳。ここに眠るのはもう少し先かもしれませんが、それまでの「道」をどう刻んでいくか。そして、孫たちとともに、まだ誰も眠っていないお墓の前で恩い出を語り合い、我が家の「道」を次の世代へとつないでいけたら一。そんな願いを込めた、生前塞です。
香川県 福森様
私は、今年で91歳になります。令和3年11月に、長年連れ添った、妻を亡くしました。私達には、一人娘がいて、優しい旦那様と、二人の男の孫にも恵まれ、二人とも医師として地元で働いており、娘家族は、隣町で幸せに過ごしています。
以前より将来の為に、家から歩いて行ける場所にある市営墓地を購入していました。
しかし、いざ妻が亡くなり、この年で、しかも跡継ぎもいないのに、お墓を建てていいのか?また、世間では、将来お墓を見る人がいなくなるということで、お墓を建てなかったり、お墓があっても「墓じまい」をする人が増えてきているという話を、よく耳にします。
そんな中、お墓を建てることをためらいましたが、娘夫婦からの、「お父さんがお母さんのお墓を建てたいのなら、建てたらいいじゃないの。私たち家族も、お母さんのお墓参りをしたいから。」と後押しをしてくれて、お墓を建てることを決心しました。
お墓の形は、将来お参りするものがいなくなる可能性もあるので、一般的なお墓でない、記念碑的なもの、しかも自然な感じが良いと思いました。それは、人はなくなると自然にかえると言われたり、自然の中で安らかに眠れると思ったからです。そして妻も、日頃から自然を愛する、心優しい人だったからです。
今回のお墓づくりは、娘の旦那さんの、兄嫁のお里であり、かねてより親交のあり、岡本石材さんに相談しました。岡本さんは私の話や、想いを、よく聞いてくれ、そのイメージを形、大きさをイラストで描いてくれました。それからイメージ図を基に、庵治石の丁場で候補になる石を探してくれました。イメージの石を探すことは、かなり苦労されたことと思います。お蔭様で、思った通りのお墓本体の石が決まり、さらに自然なお墓に合う、巻石、法名碑も考えてくれました。記念碑的なお墓なので、お供え物は祀らないつもりでしたが、お花は祀らないけれど、線香、蠟燭は都合が悪ければ、簡単にのけられるものを、やはり自然な形で考えてくれました。刻む文字についても、アドバイスしてくれました。本当に年寄りの無理難題、わがままを聞いていただきました。
ただ、本来このお墓は、2年前に完成予定でしたが、頼っていた娘が脳梗塞になり延期になりました。その間、娘家族や岡本石材さんにも支えて頂き、令和6年11月に、ようやく完成の日を迎えることができました。
完成後は、散歩を兼ねて、毎日お墓へ参り、妻に会いに行き、娘家族の健康と、安全を祈ることを日課としています。
お陰様で、心も、体も快調の日々を、過ごしています。本当にお墓を建ててよかったと思います。
北海道 廣瀬様
一般的な石材加工した墓と違うので、このコンテストの主旨に合うかわかりません。ただ、自然石を生かしたデザインに苦労しましたが、関係者のご協力で唯一無二の墓ができとても満足しています。
想い入れ
私は北海道南西沖地震で被災した奥尻島の生まれで、現在は札幌に住んでおります。島に墓守は誰もいないので無縁墓になるのは目に見えています。それでもこの島に生まれた証として、墓+祈念碑を海の見えるこの地に建立し、生まれた場所でまた自然に還る事にしました。
デザインコンセプト
両手のような台石の間に球石(宇宙・太陽・地球・心)を挟み、その上に生まれ故郷、奥尻島の形をした自然石を載せ、両手を合わせて拝んでいるような「祈り」を表現しました。
福島県 佐伯様
「死んだ後のことは頼んだぞ。」東日本大震災後、癌の治療のため入院することになった父が、出発前に泣きながら息子の私の手をにぎり言った言葉です。父の涙にうろたえた私は、思わず父の手をふり払い、「何を言ってんだ、元気になって帰ってくるんだよ。」と言いましたが、なぜあの時「大じょうぶだ、心配するなよ。」と言えなかったのか、今もずっと後悔しています。
父は、生前クリーニング店を経営していました。お人好しな父は、お客さんの無理な注文もことわらずに受けていたので、早朝から夜遅くまで、土日もほとんど休まずに働いていました。そんな姿を見て私は、(せめて土日は休める仕事に就きたい。)と考え、父の跡は継がず公務員の道を選びました。
温厚で優しい父の性格が慕われたのでしょう。父の葬儀には、震災後バラバラになった町内の方々が、私たち家族が思った以上にたくさん参列していただきました。葬儀の読経の間、私は、生前父が冗談半分に言っていた言葉を思い出していました。
「お父さんが死んだら、商売道具のアイロンをいっしょに埋めてくれ。」もちろんアイロンを埋めることなどできません。そこで業者の方にお願いして、アイロンの絵を墓石に彫っていただきました。
父の跡を継がず、死の間際に父を安心させる言葉一つも言うことができなかった、せめてもの罪ほろぼしに…。先日、お彼岸の墓参りに行った時に、四才の孫がアイロンを指さし、「じいじ、これなあに。」と聞いてきました。
会うことができなかった曽祖父のことを、もう少し孫が大きくなったら話してあげようかなと思っています。
大阪府 濱野様
夫は中学校、高校と吹奏楽部に所属し、トロンボーンを吹いていた。私たちが結婚して2年後に高校のOBバンドが結成され、夫はただちに参加。それから40年間、日曜毎に練習に通い、年2回の定期演奏会には一度も欠かさず出演した。後半の20年は団長としても活動していた。
ところが2022年秋の定期演奏会に出演した数日後から体調不良を訴え、原因不明のまま急激に衰弱していった。翌2023年秋の演奏会では、トロンボ←ンを吹くことはおろか持ち上げることさえできなくなっていた。それでも演奏会には出ようとし、舞台袖で数秒間の効果音を精一杯担当した。
年が明け、2024年1月に突如意識障害を起こし、救急搬送された病院でわずか3日後に帰らぬ人になってしまった。突然の別れに私は混乱した。なぜ夫は死なねばならなかったのか、私にはわからない。夫の死亡時刻から私の時は止まってしまい、混乱は今も続ている。
葬儀から数カ月後、私は夫が1s tトロンボーンとして吹いた最後の演奏会の資料を整理していた。その中から”A Whole New World" 「すべてが新しい世界」
と題された楽譜を見つけて、ふと、これは「二度とお別れのない永遠に続く世界」を表しているのではないかと思った。そうだ、「新しい世界」を作ろう。私たちのお墓を建てるのだ。お墓にはこの曲の楽譜の一部と、トロンボーンを彫り込んでもらおう。そしてお慕の裏側には” It's been a long long time” と彫ってもらうのだ。これは第2次大戦が終わり、米国に帰還してきた兵士に妻や恋人が思いきり甘えるという内容の楽曲で、1945年に全米で大ヒットした。「久しぶりに」という邦題がついている。私のピアノ練習に付き合い、夫が表情をつけてくれた唯一の曲でもある。音楽葬で行った夫の葬儀で、私はこの曲を弾いたのだった。
私は、こうして建てたこのお慕をお墓だとは思っていない。夫と私の新居だと思っている。いつか私が夫の元へいったとき、また一緒に暮らす新居。二度とお別れのない永遠に続く世界。ここでずっとずっと一緒に暮らすのだ。
私は夫の姿を見つけると、大声で夫の名を呼び、「お久しぶり」と言って全速力で駆け寄るだろう。夫にぶつかるようにしてその胸にすがりつく。そして子供のように、いつまでもいつまでも泣きじゃくるに違いない。