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有名人のお墓

ブラームスの墓 1833-1897

ブラームスは1833年、ドイツのハンブルクに生まれた。北ドイツ人特有の内気で打ち解けない性格であったが、それまでの大音楽家と違って、生前に社会的な成功をおさめ、創作活動のみで富を築いた音楽史上最初の作曲家となった。
幼年時代は貧困そのものだったが、両親は彼に充分な教育を受けさせた。早くからコントラバス奏者である父の音楽の手ほどきを受け、ピアノと作曲は秀れた教師について学んでいた。
読書家で勉強熱心な子供だったが、学業の傍ら家計を助けるためにアルバイトにも精をださねばならなかった。12歳から20歳までの間、彼はあらゆる仕事をしている。ピアノを教え、市立劇場で歌手や人形劇の伴奏をし、多数の舞曲や幻想曲を書き、教会でオルガンを弾き、夜は酒場でピアノを弾いた。
ブラームスが23歳年上のロベルト・シューマンと運命的な出会いを果たしたのは1853年9月末。最初の出会いからふたりの音楽家は互いに共感を覚えた。妻のクララ・シューマンも夫と同じようにすっかりこの青年に魅了された。シューマン夫妻から才能を認められたブラームスは、シューマンの久々の筆によるエッセイで、その名を広く紹介された。
54年2月にシューマンがライン川に投身自殺を図ると、ブラームスは療養所に収容されたシューマンの2年後の死まで、クララと7人の子供たちのために身を捧げた。こうした状況の中、クララと次第に恋愛ともいえる親密な関係となる。シューマンの死後は最も親しい友人の関係に変化した。62年9月、ウィーンに移り住み、まもなくウィーン・ジングアカデミーの指揮者に迎えられる。65年の母親の死を契機に、懸案の大作『ドイツ・レクイエム』の完成を急ぎ、68年に自ら指揮して発表した。母親を失った悲しみを込めたこの曲は大成功を得て、作曲家としての名声を大いにあげる。
72年の秋から75年秋までウィーン楽友協会の芸術監督となり、音楽の理解者や支持者たちを着々と増やしていったのだ。89年にはハンブルクの名誉市民となり、オーストリア皇帝からは「芸術と科学に対する勲章」を授けられるなど、外面的には栄光に包まれていた。
しかし、私生活では80年頃から、親しい友人と死別したり、仲たがいを生じたりして、次第に孤独感を味わうようになる。そして96年5月にクララが脳卒中で倒れ、死去したときにはブラームスの衝撃は頂点に達した。クララの埋葬式のあと体が衰弱し、医師の判断で肝臓ガンであることがわかった。そして翌年の4月3日、ウィーンの自宅で息をひきとった。享年63歳。盛大な葬儀ののちに、遺体はウィーン中央墓地に葬られた。

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